小さい頃のお祭りの思い出

吉本

昭和8年、大師町に何台目かの三階造の楽車が建造された。私が3才のときであった。大工は祖父、彫刻師は高松の職人である。当時の新調のお披露目などは現在と比べると簡単なものであった。新調の楽車(だんじり)を約百米はなれた北町の風伯神社まで担いでいき、宮司の御祓いを受けると自町内を廻って、祝宴をしておわりのようだった。

その後私達は、楽車の無い町へ転宅した。大師町をでると楽車につけなくなった。楽車の無い町の子供が可哀想だと祖父が本物の「3分の1」の楽車を昭和15年、伊曽乃神社の国幣中社御昇格に合せて造った。

我々子供連中は誇らしげに神社に奉納した。ときの髭の田窪宮司さんが大変喜ばれ宮司の乗っている輦台の前を行けと言われて渡御行列に参加した。渡御行列の道筋では先導の鬼頭が2階から神輿を見下ろす者がおればきつく注意して降ろしていた。この年は完成したばかりの加茂川橋に全楽車が並んで神輿をお見送りした。しかし一番と御供楽車を除いて抽選で順番を決めたので今迄と違って、知らぬどうしが隣合せとなり喧嘩があった。子供楽車は神輿の宮入迄お供をした。褒美に社紋の入った落雁(らくがん)を貰って美味しく頂いたことを思い出す。又何度目かの修復をした神輿を新堀の港から神戸村警防団員が御殿前通を担いで神社に納めるのを見た。

昭和16年に大戦が始まり、大勢の若者が戦場に赴いた。だんだんと物資が不足し宮出しなどに使うローソクも不足して提灯の数も減っていった。しかし昭和18年には戦勝祈願のため、人手不足で休んでいた楽車も車を付けてでも奉納せよのことで、荷車の車を付けて舗装のしてない道路を子供と年配者で引張った町内もあったが戦前で最多の41台の奉納があった。

昭和20年終戦となり、祭りは中止された、しかし祭りを待ち詫びて帰郷した若者は、取締りの警官の目を盗んで楽車を組み立て担いだ。

昭和21年には祭りが復活した。しかし戦後の人心の荒廃で折角の祭りも、喧嘩が多発して、楽者の破損がひどく奉納の出来ない町内が増えた。現在は喧嘩もなくなり豪華絢爛な祭りとなった。

社報「礒野」第2号より